オズヌ主 ~琉球沖縄の伝説

2011年02月08日

Posted by 横浜のトシ at 20:20│Comments(1)琉球沖縄の伝説・沖縄先島編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第92話。


オズヌ主



 普佐盛豊見親(ふさもりとよみや)(おな)時代(じだい)の、一四五〇年(ごろ)宮古(みやこ)(はなし)です。
 現在(げんざい)伊良部島(いらぶじま)主長(しゅちょう)に、豊見氏親(とよみうじおや/うずぬしゅう)という人物(じんぶつ)がおりました。
 氏親(うじおや)には義侠心(ぎきょうしん)があり、また(なさ)(ぶか)(ひと)だったため、(しま)人々(ひとびと)からは慈父(じふ)(※いつくしみ深い父親)(ごと)敬慕(けいぼ)されていたということです。
 その当時(とうじ)伊良部島(いらぶじま)宮古島(みやこじま)平良(ひらら)(あいだ)(うみ)に大きな(ふか)(※大型のサメ)(あらわ)れて、往来(おうらい)する(ふね)転覆(てんぷく)させていました。また人命(じんめい)(うば)われることも(おお)く、次第(しだい)()()途絶(とだ)え、伊良部(いらぶ)人々(ひとびと)は、段々(だんだん)生活(せいかつ)(くる)しくなるものの、(なに)出来(でき)ないでいました。
 氏親(うじおや)は、この窮状(きゅうじょう)(すく)おうと(こころ)()めました。しかし色々(いろいろ)(かんが)えてみたものの、(たたか)うのに(てき)した特別(とくべつ)武器(ぶき)はありません。そこで氏親(うじおや)は、()()(もっ)て、(しま)人々(ひとびと)災難(さいなん)から(すく)うしか(みち)はないと決断(けつだん)したのでした。
 そこで()ず、人知(ひとし)れず吉辰(きっしん)(※吉日。よい日)(ぼく)して(※うらなって)神々(かみがみ)祈願(きがん)し、
 「()れに力添(ちからぞ)(たま)いて、子々孫々(ししそんそん)幾久(いくひさ)しく(さか)(たま)えよ。」と(とな)えながら、天地(てんち)十方(じゅっぽう)()して、(おが)んだのでした。
 それから(いえ)(もど)ると、祖先伝来(そせんでんらい)脇差(わきざし)(こし)()し、鱶退治(ふかたいじ)出発(しゅっぱつ)しました。
 人々(ひとびと)見守(みまも)(なか)氏親(うじおや)(かや)小舟(こぶね)()(※いざという時は茅の中に潜って身の安全を守ろうと思ったため)只独(ただひと)り、小舟(こぶね)()()したのでした。
 やがて大海原(おおうなばら)()るかと(おも)った(とき)()たして一匹(いっぴき)巨大(きょだい)(ふか)が、大波(おおなみ)()()げ、(せき)(※背骨)(あら)わにし、小舟(こぶね)(ちか)づいて()たのでした。
 そして(ふね)諸共(もろとも)()()まんとする(いきお)いで、(おそ)いかかったのです。
 (ふね)が、()()微塵(みじん)になる、まさにその直前(ちょくぜん)氏親(うじおや)は、脇差(わきざし)(かた)(にぎ)りしめると、(うみ)()()みました。
 するとそれを()大鱶(おおふか)は、あっという()に、一口(ひとくち)で、氏親(うじおや)()()んでしまいました。
 (とお)くで、()(あせ)(にぎ)りしめながら、その様子(ようす)()ていた村人達(むらびとたち)は、はっと(いき)()み、それから(かみ)(いの)りました。
 さて、()()まれた氏親(うじおや)は、かつて(ころ)された(しま)(たみ)(うら)みを、(いま)こそ(おも)()れとばかりに、大鱶(おおふか)(はら)(なか)を、ところ(かま)わず脇差(わきざし)()()しました。そして(ちょう)()ち、(きも)()()としたのです。
 流石(さすが)大鱶(おおふか)も、たまりません。(もだ)(くる)しみながら、一暴(ひとあば)れした(のち)、とうとう力尽(ちからつ)きて(うご)かなくなりました。そして海面(かいめん)(はら)()して()かび()がると、(ただよ)(はじ)めました。
 ()づけば、(あた)一面(いちめん)()()()(うみ)()し、やがて(なみ)(はこ)ばれた大鱶(おおふか)は、(ちか)くの比屋地(ひやぢ/ぴゃーず)浜辺(はまべ)に、()()げられました。
 ()けつけた(しま)人々(ひとびと)()ぐさま、(いそ)いで(ふか)(はら)()き、(なか)から、氏親(うじおや)()()して、懸命(けんめい)介抱(かいほう)しました。また(ほか)者達(ものたち)は、(たす)かるようにと必死(ひっし)に、(かみ)(いの)りを(ささ)げました。
 しかしながら、その甲斐(かい)()く、氏親(うじおや)(いき)()きとったのでした。
 この(とき)島民(とうみん)(なげ)(かな)しみようは、言葉(ことば)にし()くせぬものだったことは、()うでもありません。
 こうして、()()えのない、たった一つの氏親(うじおや)(いのち)()()えに、無事(ぶじ)人食(ひとく)大鱶(おおふか)退治(たいじ)されました。
 そして(しま)周辺(しゅうへん)航海(こうかい)は、(ふたた)安全(あんぜん)()(もど)しました。また、漁師達(りょうしたち)もやっと安心(あんしん)して、(りょう)()られるようになりました。
 (しま)人々(ひとびと)は、豊見氏親(とよみうじおや/うずぬしゅう)遺体(いたい)を、(ねんご)ろに、比屋地(ひやぢ/ぴゃーず)御嶽(おたき/おたけ)(ほうむ)りました。そして、比屋地御嶽の配神(はいしん)(※通常、複数の神を祀っている場合、主として祀られる神を主神(しゅしん)、それ以外の神を配神等という)として(まつ)ったと、(つた)わっています。
 そして、「オズヌ(しゅ/氏)(しゅ)御嶽(おたき)」として、(いま)(しま)人々(ひとびと)から崇拝(すうはい)されるとともに、子孫達(しそんたち)は、「方」の族字(ぞくじ)(ゆう)する伊安氏(いあんうじ)として、現在(げんざい)でも、繁栄(はんえい)しているそうな。

 
※この話の参考とした話
沖縄先島・沖縄県宮古郡伊良部町佐和田~『伊良部郷土誌」
沖縄先島・沖縄県宮古郡宮古島~『宮古史伝』『宮古島庶民史』、ただし『宮古島庶民史』の記事は、『伊良部郷土誌』の例話に近い
沖縄先島・沖縄県宮古郡伊良部町佐良浜~『ゆがたい』第三集


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●伝承地
沖縄先島・沖縄県宮古郡伊良部町佐和田~普佐盛豊見親と同時代の一四五〇年頃、今の字伊良部の主長で、豊見氏親という人がいた。氏親は義侠心があって情深い人でしたので、庶民から慈父の如く敬慕されていた。ところが、当時、伊良部と平良間の海に、大きな鱶(ふか)があらわれ、往来の船を覆し、人命に害を及ぼすことが多かったので、交通運輸の便が全く途絶えて、生活に苦しんでいた。氏親はこの窮状を救おうと思い、いろいろ考えたけれども、武器のない時代に如何ともすることは出来なかった。氏親は身を以て住民の難を救おうと決心し、窃かに吉辰を卜して神々に祈願し、「我れに力を添え給いて、子々孫々幾久しく栄え給えよ」と天地十方を伏し拝んで、祖先伝来の脇差を帯して立ち向かった。
 氏親は茅を小舟に積み(鱶に遭う際茅の中にもぐり身の安全を守るため)、唯一人で小舟を漕ぎ出た。やがて途中へさしかかると思うと、鱶は大波を捲きあげ、脊を現わにして小舟に近づき、今にも小舟諸共呑まんばかりの勢いで小舟に躍りかかった。氏親は今かとばかり、尺余の脇差を堅く手に握り、海に躍り込むやいなや、大鱶は一口に氏親を呑んでしまった。手に汗をにぎって見ていた村人たちは、ただ神に祈るだけであった。
 氏親は島民の怨み思い知れとばかりに、大鱶の腹中で、腹を突き刺し、腸を断ち肝を切り落とした。さすがの大鱶もたまりかねて、大荒れに暴れだしたけれども、とうとう力つきて倒れてしまった。あたりは一面血の海と化し、大鱶は間もなく浜辺にうちあげられたので、村人達は急いで鱶の腹を裂き氏親を救出して一生懸命介抱に尽したけれども、遂に息を引きとった。島民の嘆き悲しみは如何ばかりでしたであろうか。
 しかし氏親の有勇と決断力の甲斐あって、見事大鱶を退治することができて、島民は平良間の航海も安全となり、漁夫たちも安心して漁に行けるようになったという。
 島民は氏親の死骸を厚く比屋地お嶽の側に葬り、比屋地お嶽の副神として祀った。毎年例祭日を決め祭事が行なわれている。今ではウズの主といって島民から崇拝され、その業蹟は上司の認めるところとなり、姓氏の伊安氏が贈られて、その子孫は方の族字が付され、伊良部、仲地部落では方の族字を有する氏子は、人口の半数を占めるほどに繁昌している。(『伊良部郷土誌」)
沖縄先島・沖縄県宮古郡宮古島~普佐盛豊見親の頃、伊良部島の主長に豊見氏親という人物がいた。その頃、伊良部島と平良との間の海に、大鱶が現れて往来の船を覆して、しばしば人命を奪っていたので、氏親は万民の愁いを断つため、これを殺そうと、祖先伝来の小刀を帯し、一人小舟で乗り出した。やがて大波を巻き上げて大鱶が現れたので、氏親が切りかかると、大鱶は小舟本ろとも大ロに飲み込んでしまった。氏親は、小刀で腹中を切り回って腹を割って出ると、あたりは血の海と化し、大鱶の死骸が横たわっていた。しかし、氏親も力尽き、その日の夕方に舟とともに比屋地浜に漂い着いたので、島人が参じて介抱したが、まもなく息を引き取った。島人は、氏親の遺体を比屋地山に葬り、御岳を立てて神と祈った。(『宮古史伝』『宮古島庶民史』、ただし『宮古島庶民史』の記事は、『伊良部郷土誌』の例話に近い)
沖縄先島・沖縄県宮古郡伊良部町佐良浜~大昔、伊良部と平良の間に、小山のような大鱶が出没して、そこを通る舟を引っくり返しては飲み込んでいた。伊良部の人々が困り果てているとき、伊良親の豊見親が、村人のために鱶退治を決心した。神に祈り、あらかじめ鱶の腹中に入っても自由に動けるように用意して、くり舟に乗り込んだ。やがて大鱶に遭遇して、これに斬りかかったが、豊見親は舟もろともに飲み込まれてしまった。それでも、大鱶の腹中を斬り回ってから外に飛び出したが、そのまま気を失ってしまった。村人が舟を出してやってくると、豊見親は血の海のなかで、大鱶にもたれていたので、村に連れ戻って介抱したが、豊見親はそのまま息を引き取った。村人はこれを悲しみ、その遺体を葬り御岳を作って神と祈った。(『宮古の民話』)○沖縄先島・沖縄県宮古郡伊良部町佐和田~昔、伊良部と平良との間に大きなサバがいて、通りかかる船を飲み込んでしまい、平良との往来ができなくなっていた。その頃、伊良部生まれのウズの主というウズツムヌがおり、自分のような者は生きていても仕方がないから、島のために死のうと、デイゴの木で舟を作って小刀を両手にもってサバ退治に向った。大サバが飛んで来て、ウズの主を飲み込んだので、彼は命の限りサバの腹の中を切り刻んだ。サバは死んで長山の浜に打ち上げられたので、島人がサバの腹をあけると、舟もろともウズの主が入っていた。人々は、伊良部島の守り神だと死体を葬り、佐良浜で十月のアラ水の日に登りをするようになった。(『ゆがたい』第三集)


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今晩は(^^)

ありがとうございます。
原稿出来次第、その都度送ります。
よろしくお願いします。
まずは構想を先に送りますね。
Posted by スーさん at 2011年02月12日 22:06


スーさんへ。はいさい、今日(ちゅー)拝(うが)なびら。

お爺さまの馬車が郷愁だなんて、素適な郷愁ですねぇ。

馬車は、沖縄の歴史、特に、沖縄に流れる時間に、ぴったりですね。

お爺さまの、昔の暮らしを、小説にするのは、
とても良いことだと、思います。

編集の仕事は、まったくの、ド素人ですから、
できるとは、自分で思えないのですが、
スーさんのお手伝いができるなら、もちろんOKです。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年02月12日 09:03


ありがとうございます(^^)
おじぃの馬車が郷愁です。
それを、引き継ぐ者がいないので・・・
それをやりたい想いがあります。

おじぃの昔暮らしを小説にもしようかと思います。
toshi1さん、私の小説の原稿の編集者になってくれませんか?
ずうずうしいお願いでしたらごめんなさい。
Posted by スーさんスーさん at 2011年02月12日 00:55


スーさんへ

いえいえ、
動物を、解体するのですから、
グロテスクという表現は、決して間違いでは、ありません。
それが、ごく自然です。

ただ、
グロテスクという言葉は、マイナス・イメージをもつ言葉です。

ですから、
普通ならグロテスクの思える行為を、
プラス・イメージに変えてあげる目的が、
あるいは、そこまではいかなくても、
少なくともプラス・イメージの重要性を教える、
それが、
年長者の、子どもへの役割です。

ですから、スーさんは、決して間違っていないし、
つじつまも、合っているので、御安心下さい。では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年02月10日 20:16


スーさん、こんにちは。

ブタ草は、
10月頃だけでなく、スギやヒノキの後の5月頃と、
年に2回飛ぶので、その方は、大変ですね。

なるほど。
そのお医者さんは、
スーさんが、もっともっと大人になってからって、意味かも(笑)。

うちの母は、65歳ぐらいだったか、急に花粉アレルギーがなくなったって、
言ってましたよ。

アフロと言えば、
僕は、パーマをかける時が多いんですが、
とまりんから、日帰りで、座間味の阿嘉島に行った時とか、
泡瀬の海で、一日中、遊んだ時とか、よくアフロになります。

若い頃ですが、湘南だと、ならなかったから、
もしかすると、潮風プラス日差しとかが、関係するかも知れませんね。

アレルギーですが、
僕は、冬になって、気温差があると、全身が、かゆくなります。
ところが、
花粉症が出ると、それがピッタリ止まります。

スーさんも、僕も、
アレルギーの中には、ぜんそくの発作などもありますから、
それに比べれば、まだいい方だと、自分に言い聞かせるのが、
良さそうですね。

スーさんも、僕も、この分じゃ、老後は沖縄か?(笑)

少なくとも、辛さは、よくわかります。
僕も、花粉症なんて言葉がなかった昔から、花粉症です。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年02月10日 20:08


グロテスクの私の意図が伝わりきれていません。
すみません、説明が下手で。
お逢いした時に話しますね(^^)
Posted by スーさん at 2011年02月10日 14:06


今晩は(^^)
コメントご無沙汰ですみません。

”失神する子もいたようです・・・。”
とつてもわかります!

私は看護士さんに友人が2人(30代)いるのですが、悩み相談の説明がかなり”グロテスク”です。本人達はいたって真面目です。

ご本人達は日常なので、どうってことないんでしょうが・・・。
あまりのグロテスクさに、耐え切れず、私は・・・
沖縄の友に電話しちゃったぐらいです。(流石の私も(笑))

悩み相談適齢期の、わたくしですが”人様の悩み相談なんておこがましい!”という謙虚さを懸命に思わせていただいた看護士の友人達に心から感謝です。

生命(いのち)・・・スプラッター映画においては”軽さ”がいなめないです。
Posted by スーさん at 2011年02月08日 23:04


笑い猫さん、こんにちは。

あくまでも、
僕の主観(しゅかん)の、説明になります。

例えば、昔の沖縄では、
飼っている牛や豚や鳥を殺して、食べる時、
子どもが、ある年齢になると、説明をして、教育に利用したようです。

子どもにとって、
それまで一緒に暮らした、
いわばペット感覚の動物が、目の前で殺されるのですから、
それなりに、かなりショックだったようです。

決まった年齢ではなかったようですが、
今でいう中学生頃だったり、したようです。

まず、お爺さんや、お婆さんが、
孫の前にすすみ出て、言います。

「よく、お聞き、(笑い猫)や。
動物だって、人と同じように、命は一つしかないんだよ。
その大切な命を、私たち人間を生かすために、
昔から動物たちは、命を下さるんだよ。
だから、
血一滴(いってき)たりとも、大切にあつかって、
感謝して、無駄なく、使わなければ、いけないんだよ。」

そう言ってから、解体したそうです。
これは、やはり、命の大切さを伝える、一種の教育です。

そうはいっても、
もちろん、初めて見る動物の解体を見て、失神する子もいたようです。

この民話の目的も、
たった一つの命の尊(とうと/たっと)さを語って教育する点は、
同じだと、思うんですが。

日本の昔話にとどまらず、
世界中の昔話に、
命と引きかえの話が多いのは、
やはり命の尊さを教えるという目的が、
ふくまれている気がします。

いつもコメント、ありがとうございます。では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年02月08日 21:16


こんばんは~。
おきなわの昔話には自分の命と引きかえの話が多いですね~。
色々と考え深いものがあります
日本の昔話もそうなのでしょうか?
Posted by 笑い猫 at 2011年02月08日 20:33


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

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