ビッチュウル御嶽 ~琉球沖縄の伝説

2011年03月04日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(3)琉球沖縄の伝説・沖縄先島編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第115話。


ビッチュウル御嶽(うたき/おたき)(いし)



 むかし(むかし)波照間島(はてるまじま)の、女酋長(おんなしゅうちょう)ブパーメー時代(じだい)(こと)です。ヤマダパーメーとピイタブパーメーという、二人(ふたり)女傑(じょけつ)がいたそうです。
 ある(とき)、ヤマダブパーメーは、首里王府(しゅりおうふ)から()されて(たび)することになりました。
 出発(しゅっぱつ)()たって、(うし)を、イロピナ田原(たばる)にあった(現在ビッチュウル御嶽に神体として祀られている)ビッチュウル(いし)(つな)ぎました。稲刈(いねか)()で、(あめ)がよく()って、()には充分(じゅうぶん)(みず)があったので、ここを(えら)んだそうです。またこの(いし)(たい)して、自分(じぶん)(たび)から(かえ)るまで、(うし)(まも)って(くだ)さいとお(ねが)いして、旅立(たびだ)ちました。
 (たび)は、好天気(こうてんき)(めぐ)まれて、また予定(よてい)より早目(はやめ)に、(すべ)ての用件(ようけん)()ませて、(かえ)って()ました。
 帰島(きとう)すると、彼女(かのじょ)()(さき)に、(もっと)気掛(きが)かりだった、(いし)(つな)いだ自分(じぶん)(うし)(ところ)へ、()って()ました。すると、(うし)は、何事(なにごと)もなく無事(ぶじ)でした。
 それは(いし)神様(かみさま)が、(ねが)いを()いて、(うし)をお(まも)(くだ)さったに(ちが)いないと、彼女(かのじょ)(おも)いました。また、(うし)(つな)いだ(いし)には、(かみ)宿(やど)っていらっしゃるに(ちが)いないと確信(かくしん)しました。
 そこで早速(さっそく)、この(いし)を、彼女(かのじょ)(あたま)()せると、船着場(ふなつきば)(ちか)くに(はこ)びました。それが(いま)の、ビッチュウル御嶽(うたき/おたき)で、(いし)神体(しんたい)として(まつ)り、(たび)海上安全(かいじょうあんぜん)をここで祈願(きがん)した(はじ)まりとも、(つた)えられています。そしてそれから(のち)は、波照間島(はてるまじま)(もの)は、(たび)をする(とき)には(かなら)ず、ビッチュウル御嶽(うたき/おたき)やマドマリ御嶽(うたき/おたき)に、道中(どうちゅう)安全(あんぜん)祈願(きがん)する(なら)わしになっているそうです。
 また、船主(ふなぬし)は、正月(しょうがつ)年頭(ねんとう)祈願(きがん)や、大漁(たいりょう)(ねが)(とき)(かなら)参拝(さんぱい)しているそうです。
 (なお)この(いし)は、(むかし)、イロピナ田原(たばる)にあった(ころ)(かま)農具(のうぐ)()ぐのに使(つか)われていたそうです。
 またこの(いし)は、(おとこ)でも、四人(よにん)がかりでやっと(かつ)げる(おも)さです。
 それを、(むかし)(あたま)()せた女傑(じょけつ)ヤマダパーメーとは、一体(いったい)どんな人物(じんぶつ)であったのかを想像(そうぞう)すると、(まった)(おどろ)くばかりです。(いし)()て、二人(ふたり)女傑酋長(じょけつしゅうちょう)力量(りきりょう)(かんが)えるだけで、(だれ)もが不思議(ふしぎ)気持(きも)ちになるそうな。

 
※この話の参考とした話
柳田~「牛繋石」
沖縄先島・沖縄県八重山郡竹富町波照間島~『竹富町誌』


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●伝承地
柳田~「牛繋石」
沖縄先島・沖縄県八重山郡竹富町波照間島~昔の波照間、女酋長ブパーメー時代に、ヤマダパーメーとピイタブパーメーという二人の女傑がいた。ある時ヤマダブパーメーは首里王府から召されて沖縄旅行をすることになったので、出発に当り、牛をイロピナ田原にあった(現在ビッチュウル御嶽に神体として祀られている)ビッチュウル石に牛を繋ぎ、その頃は稲刈り後で雨がよく降り田には水が充分あったので、この石に対し、自分が沖縄から帰るまでこの牛を守護してくださるよう祈願して旅立ったところ、好天気に恵まれ早目に用件をすませて帰って来た。帰島すると彼女は早速自分の繋いだ牛の処へ行って見ると、牛は無事であった。これは神さまのお守りのたまものである。この牛をつないだ石は神が宿っていられるに違いないと、早速この石を彼女は頭に乗せて船着場近くにある今のビッチュウル御嶽に神体として祀り、旅の海上安全を祈願したのが始まりであると伝えられている。それから後は波照間では旅をする時には必ずビッチュウル御嶽やマドマリ御嶽に祈願するならわしになっている。船主は正月の年頭の祈願や大漁願の時は必ず参拝している。この石は昔、イロピナ田原にあった頃は鎌や農具を研ぐのに使用されていたという。この石は今では男でも四人位で担げるかと思われる程の重量の石であるが、その昔女一人で頭に乗せて持って来たと言われているので、不思議であり、女傑酋長の力量を想像すると全く驚くばかりである。(『竹富町誌』)


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SUZUさん、こんにちは。

子どもの頃、良く見かけましたか? 
筋トレすれば、確かに誰でもできるかも。

僕が住む場所は、今こそ都会ですが、昔は田舎。

でも、頭の上に荷物を乗せて歩いていた人の記憶は、ないんです。

そう言えば、沖縄で、
一升瓶を、頭の上に載せて踊っている大人の人は、男女とも、見たような~(笑)。

このところ、花粉症で、肩凝りはじめ体調がボロボロの上、
仕事のストレスも多く、ブログの余裕がありません。

木曜から日曜、久しぶりに花粉のない沖縄で、ゆっくりしま~す。
というより、沖縄で、寝込んでる予感。
でも、筋トレだけするかな?(笑)
Posted by 横浜のtoshi at 2011年03月08日 05:14


す〜み〜☆さん、こんにちは。

やはり、女酋長といえば、与那国島の「サンアイ・イソバ」だけれども、
波照間島にもいたなんて、実は、知らなかったんです。

少し調べましたが、
ブパーメーも、ヤマダパーメーも、ピイタブパーメーも、全く資料が出てきません。

首里に呼び出されるので、そんなに古い時代でも、なさそうですが。

実は、重さで僕が最初に想像したのが、米俵(こめだわら)。
江戸時代の人は、身長が150~160センチが平均で、
米俵(60キロ)を、一人で担いでいました。
中には、倍、担げる人もいたとか。

プロレスラーは、150キロのバーベルを、背負ったりするそうです。
昔のセメント袋が60キロで、2個いっぺんに担いだ人もいたとか。

戦争中の、日本の軍人の場合、百姓出身者が多かったそうで、
殆んどの人が、やはり、米俵1俵(60kg)ぐらいは、担いで歩いたそうです。

砲兵の場合は、山砲を分解して、肩搬送(40~50kg)するので、
やはり、少なくても100kgを担いで、一日中、道なき山間部も歩いたとか。
従って、砲兵には、体力のある人間が選抜されたようです。

大学時代、友達が、米屋でアルバイトしてて、
60kg、担げるようになったって言ってました。
みんなで、凄いって言ったら、
彼は山岳部だったんですが、色々と100kg担いで、山に登るって言ってました。

以上から考えると、あながち、大袈裟とも言えない重さなんです。

す〜み〜☆さんも、トレーニング次第で、担げるようになるかもよ~(笑)。
コメント、ありがとうございました。
Posted by 横浜のtoshi at 2011年03月05日 07:10


男性4名で、やっと担げる重さの石を、
女性一人で、頭に乗せて、移動。

単純に、男性だったら、20キロくらいまでは、
たぶん、どうにかこうにか、普通に持ち上げることが、
できると思うから、
20キロ×4で、80キロ。
多少誤差があっても、100キロとしても、
その石の大きさも、相当なものだし、、

それを、女性が、あまたに乗っけてって(^^;;

もし仮に、石が、直径1メートルぐらいとして、
安定感で、運ぶとなれば、
一体、どんだけ、がっちりした女性だったんだろう(^^;;

その昔、南の島には、
巨人伝説もあったから、
案外、その巨人の子孫が、いたのかも!!

凄すぎ(@@)
Posted by す〜み〜☆ at 2011年03月04日 23:28


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