~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第68話。

黄金の瓜子(うりざね)

 むかし、玉城の百名に、一人の男が住んでいました。
 名前を白樽(しらたる)と言い、生まれつき孝行者(こうこうもの)で思い遣(や)りの心が深く、日頃(ひごろ)から常(つね)に正しい行いをして、決して悪いことをしませんでした。
 玉城按司は、白樽の日頃(ひごろ)の行(おこな)いに、大層(たいそう)、感心して、長男の免武登能按司(めんとんあんじ)の娘を、白樽の妻にしました。
 ある日のこと、夫婦が野や山に行って、あちらこちらの美しい景色を眺(なが)め、愉快(ゆかい)に楽しく遊んでいますと、たちまち東の方(かた)の、ぼおっと霞(かす)んだ中に、一つの小さい島が、波の間(ま)に間(ま)に見え隠(かく)れしています。
 白樽は、この小島(こじま)を見て、大層、驚き、いぶかしく思い、それからは、時々、野に出掛(でか)けて行っては、気を付(つ)けて、よくよくその小島を見続けていました。
 この頃、村では、皆(みな)が勢力争(せいりょくあらそ)いをして、来(く)る日も来る日も、戦(いくさ)が絶(た)えませんでした。
 毎日、人々が争(あらそ)うのを、眼の前で見せつけられ、白樽は、この騒々(そうぞう)しい所から離れたいと考えていました。その折(おり)に、東の方の島が見えたので、夫婦は相談して、小舟でその島にゆくことにしたのでした。そして東へ東へと舟を漕(こ)ぎ出しました。
 しぼらく漕ぐうちに、間もなく嘗(かつ)て野で見た島に、着(つ)きました。
 舟を岸に繋(つな)いで上陸し、島の隅々(すみずみ)まで見て回ったところ、水がとても美味(おい)しく、土は質がよく、野は広く、山は低く、誠(まこと)に村をつくるのに適(てき)しているのがわかりました。
 けれども、食べ物を自(みずか)ら作る事が出来なかったので、毎日、海辺(うみべ)に出ては、貝を拾(ひろ)い集め、その日その日の食べ物にして、暮していました。
 それから夫婦は、伊敷泊(いしきとまり)に行って、子孫繁昌(しそんはんじょう)、食物豊穣(しょくもつほうじょう)を、お祈りしていました。お祈りが、まだ終わらぬうちに、たちまち白い壺(つぼ)が、波に浮かんで、ゆらぎゆらぎ、やって来ました。
 「何とも不思議なことだ。」と思った白樽は、直(す)ぐさま、着物を端折(はしょっ)て、それを取ろうと水に入りますが、どうしたことか、今度(こんど)壺は、波の下に沈んで見えなくなってしまいました。
 妻は、「是非(ぜひ)とも、あれを手に入れたい。」と思ったので、急いで屋久留川(ヤグルガー)に行って身を洗い清(きよ)め、清潔(せいけつ)な着物を身に付(つ)けて引き返し、前の浜辺に立って、袖(そで)を広げて、白壷がかかるのを待っていました。
 すると、いくらもたたぬうちに、白壺がひとりでに袖にかかりましたので、妻は大層喜び、早速(さっそく)その壺の蓋(ふた)を開いて中を見てみると、三種の麦(むぎ)の種(たね)と、粟(あわ)の種と、豆(まめ)の種(たね)が二種(にしゅ)、入っていました。
 麦は、小麦(こむぎ)、葉多嘉麦(はだかむぎ)大麦(おおむぎ)で、粟は、佐久和(さくわ)・餅也(もちや)・和佐(わさ)、それから豆は、小豆(あずき)と呼ばれる物でした。
 二人は、それらの種(たね)を持って帰り、早速(さっそく)、古間口(こまぐち)の地に、種(たね)を蒔(ま)きました。
 毎日毎日、気を配って種子(しゅし)を育てたので、やがて、お正月が近づく頃には、ようやく穂(ほ)が出始(ではじ)めました。
 よくよく見てみると、普通の麦の種(たね)と違うので、白樽は、
 「これは珍しい物だ。きっと実(みの)ったら、是非(ぜひ)とも王に差し上げよう。」と思い、手入(てい)れを怠(おこた)らず、実(み)が熟(じゅく)すのをずっと待っていました。
 二月になると、麦が見事(みごと)に熟したので、吉日(きちじつ)を選んで、王に献上(けんじょう)したところ、大層、王はお喜びになり、これをお納(おさ)めになりました。そして、この麦で御神酒(おみき)を造らせて、方々(ほうぼう)の御嶽(うたき)にお供(そな)えし、それがすんでから今度は、それをお城のあらゆるお役人に与えられました。
 それからは、この土地では、色々な農作物(のうさくもつ)が豊(ゆたか)かになり、人も、一代(いちだい)(ごと)に繁昌(はんじょう)していって、遂(つい)には、いつも人で賑(にぎ)やかな村となりました。
 その地は、久高島(くだかじま)と名付(なづ)けられました。
 白樽(しらたる)の長女は、於戸兼(おとかね)と言い、専(もっぱ)ら祝女(のろ)として嶽々のお祭り事をしました。
 長男の真仁牛(まにうし)は家を継(つ)いで、その子孫(しそん)は代々(だいだい)続いて、外間根人(ほかまねえんちゅ)となりました。
 二女の思樽(おみたる)は、巫女(みこ)となりましたが、その美しさが見初(みそ)められて、王の城の巫女として、お勤(つと)めをするようになりました。
 この人は、大層、静かな上に、何事(なにごと)にも控(ひか)え目で、如何(いか)にも女らしい立ち居振る舞い(たちいふるまい)をする人で、その上、人並み以上に美しいので、王は、御殿(ごてん)の奥(おく)にお招(まね)きなさって、夫人(ふじん)となさいました。
 王は思樽(おみたる)を、大層、可愛(かわい)がられ、この上なく思樽(おみたる)も幸福な日々を送っていました。
 そのうちに、思樽が懐妊(かいにん)したところ、お妾(めかけ)達がこれを嫉(ねた)んで、一言(ひとこと)も話しかけようとせず、白い眼で見るばかりの日々が始まりました。
 そんなある日、思樽夫人が屁(おなら)をしました。
 日頃から嫉(ねた)んでいたお妾達が、この事を聞いたから堪(たま)りません。夫人を恥ずかしめるにはこの機会だとばかりに、手を打って喜び、夫人の屁の話ばかりして、嘲笑(あざわら)いました。そのため、婦人は、いよいよ辱(は)ずかしくなって、王の前にも出なくなり、遂(つい)にお暇(ひま)を頂(いただ)いて、古里(くに)に帰ってしまいました。
 それから月日が経(た)ち、五、六ヶ月も過ぎますと、子供が生まれる頃になって、思樽は思いました。
 「王の御後継(おあとつぎ)を、こんなむさ苦(くる)しい所で産んでは、罰(ばち)があたる。」
と、産室(さんしつ)を設(もう)けて、そこで男の子を産みました。
 生まれた子供に、金松兼(かねまつがね)と名をつけて育てました。
 金松兼は七才の時に、
 「私の父は、どうしていないのですか。」
と母に尋(たず)ねると、
 「お前には、父親はいません。この私、母だけです。」
と、答えるだけでした。そしていくら聞いても、それ以上は話してくれませんでした。生まれつき勝(すぐ)れでいた金松兼は、八才の時には、
 「天は、陰と陽との二つでもって世の中の凡(すべ)てのものを育(はぐく)みます。
それだのに、どうして私一人だけ、父がいないのですか。お願いですから、どうぞ父が誰(だれ)であるかを聞かせて下さい。」
と問い詰(つ)められて、母は前に言ったような事を答えましたが、もうこれまでのような答えでは納得(なっとく)せず、必死(ひっし)になった金松兼は、
 「子供が、父親を知らないなんていう事はありない。知ると恥ずかしい父なら、私はきっと生きているのも無駄(むだ)な事だ。いっそ死んでしまった方がよい。」
と言い出して、それからは食事をまったく取らず、毎日毎日、ただ泣いていました。
 我が子が、日々(ひび)(や)せ細(ほそ)ってゆく姿を見て、さすがに思樽夫人は可哀想(かわいそう)になり、この時に初めて、王に可愛(かわい)がられたために妾(めかけ)達から嫉(ねた)まれて、今のような、こんな風になった経緯(いきさつ)を詳(くわ)しく話して聞かせました。そして話し終わる最後に、
 「お前は、こんな田舎(いなか)で生まれたので、顔形(かおかたち)も、着る物も、首里の人とは似たところがなく、王にお会いする事など、とても出来ないでしょう。
 それが、今までいくら尋(たず)ねられても、強(し)いて話して聞かせなかったわけです。」
 膝(ひざ)に手を置いて、静かに聞いていた金松兼(かねまつがね)は、聞き終わると直(す)ぐさま伊敷泊(いしきとまり)に行き、東の方に向って、天を仰(あお)ぎ、
 「私の母は、王のお側(そば)に仕(つか)えて御寵愛(ごちょうあい)を受け、遂(つい)に私を身籠(みご)もりました。
 しかし、災(わざわ)いのために、病気と告(つ)げて古里に帰って来ました。そして生まれた私は、こんな淋しい処(ところ)で成長しましたが、何故(なぜ)か心が穏(おだ)やかではありません。
 天地の諸々(もろもろ)の神様、どうかお願いでございます。
 私の真の心を、おくみとりになって、私を可愛想とおぼしめし、王の御許(おんもと)に行けるようにして下さい。
 その願いが叶(かな)えば、決して御恩(ごおん)は忘(わす)れません。」
 そのような祈りは、毎朝続いて、丁度(ちょうど)七日目の朝のお祈りをしていると、黄金が、ぴかぴか光りながら、波にゆられれて、岸に近寄って来ます。
 小(こ)おどりして喜んだ金松兼は、直ぐ手をさし伸(の)ばして袖に受け、手に取ってみると、黄金の瓜子(うりざね)です。
 大層、喜んで、瓜子(うりざね)を懐(ふところ)に入れて家に帰り、母へ首里に行く事を伝えて、旅立ちました。
 都に着いた金松兼は、たった一人でお城に行き、
 「王にお目通(めどお)りが叶(かな)うように、お計(はか)らい下さい。」
と、役人に頼みました。
 けれども、髪の毛は赤く、着物は粗末(そまつ)で、その余りのみすぼらしさに、すっかり役人に馬鹿(ばか)にされて、「気狂(きちが)い」の子供が、お城に行ってどうするのだと言われ、叱(しか)り飛ばされて、一向(いっこう)に相手にもしてもらえません。しかしそれでも頑(がん)として少年は聞きません。
 どことなく気高(けだか)く厳(おごそ)かなところがある少年は、役人を少しも恐(おそ)れる気色(けしき)もなく、
 「是非(ぜひ)とも、王に取(と)り次(つ)いで下さい。」
と頼(たの)み込(こ)んで、動こうとしません。
 御役人(おやくにん)達は、この少年を不思議に思って、兎(と)に角(かく)、一応(いちおう)この少年の事を王に申し上げて見たところ、王からお許(ゆる)しが出ました。
 王の前にやって来た金松兼(かねまつがね)は、懐(ふところ)から、黄金の瓜子(うりざね)を取り出して、王に差し上げながら、
 「この瓜(うり)の種(たね)は、お国にまたとない宝でございます。これは世にも稀(まれ)にしか見られない物です。
 特に、雨が降って、土が湿(しめ)った時、生まれてからまだ一度も屁(おなら)をした事がない女に植えさせたならば、必ず茂(しげ)り蔓延(はびこ)って、沢山(たくさん)の実(み)を結(むす)ぶ事でしょう。」
と申し上げたところ、王はお笑いになって、
 「この世の人で、一人として放屁(ほうひ)をしないという者などあるだろうか。」
とおっしゃいました。
 「それなら、人が屁(おなら)をする事が、どうして罪なのでございましょう。」
と、険(けわ)しい表情で言う金松兼に対して、王は、
 「これにはきっと、何か理由(わけ)があるに違いない。」
とお思いになって、宮殿の奥深(おくふか)くにお召(め)しになられ、改めて、
 「何是(なぜ)、あのような事を言うのか。」
とお尋(たず)ねになりました。
 金松兼は、御殿(ごてん)で母が屁(おなら)をしたために、それを皆(みな)に笑われて恥をかかされ、古里(くに)に帰って自分を産んだいきさつを、詳(くわ)しく申し上げました。
 王は、話を聞いていらっしゃるうちに、金松兼が自分の子供で嗣子(あとつぎ)だとわかり、聞き終わると、今、直ぐにでも城内に住(す)まわせようとも思ったが、東海の小島の片田舎で暮らしていた子供を、ただちに宮殿に引き取るのはどうかと考えて、思い直しました。
 そこで暫(しばら)くは、金松兼を帰郷(ききょう)させて、時が来るのを待つ事にしました。
 その後、いつまで経(た)っても、王に後継(あとつ)ぎが出来ません。
 そこで王は、遂(つい)に、金松兼を、小島からお呼び寄せになって世継(よつ)ぎになさいました。
 金松兼は、間(ま)もなく王の御位(みくらい)に就(つ)きました。
 この新たな王は、三年に一回、自(みず)ら久高島にお出掛(でか)けになり、その上、毎年一回は、外間根人(ほかまねえんちゅ)や祝女(のろ)が、御中門から謹(つつし)んで、魚類(ぎょるい)を献上(けんじょう)しました。すると今度(こんど)は、祝女を御殿(ごてん)にお召(め)しになって、賑(にぎ)やかに、宴(えん)を催(もよお)しなさって、茶や、葉烟草(はたばこ)などをおつかわしになり、根人(にいんちゅ)へも、又、御玉貫(おたまぬき)一双(いっそう)ずつを賜(たまわ)りました。
 康熈(こうき)庚子(かのえね・享保五・西暦一七二〇年)になって、このような献上物(けんじょうぶつ)は、お取り止(や)めになりました。


※註
~『琉球国由来記』巻一「王城公事(くじ)の条」に、次のように書かれている。意訳(いやく)すると、「久高島への行幸(ぎょうこう)は(行幸がない年は、首里の弁ガ嶽から、お通しの礼拝が行われる)、古(いにしえ)から、二月の、麦の麦穂祭(ミシキヨマ)の時、一年越しに久高島に行幸(ぎょうこう)される。聞得大君・司親雲上・按司などを伴(ともな)われての御祭礼(ごさいれい)である。」
 尚貞王の時代、康熈十二年(一六七三年)二月十一日から、改めて当役(あたりやく)だけを遣(つか)わされて、御祭礼をさせて、王自(みずか)らの御渡海(ごとかい)取り止(や)めが、評定所(ひょうじょうしょ)日記に記(しる)されている。
 祭典(さいてん)の品物は、阿達理職(あたりしょく)御双紙に書かれている。『中山世鑑』によれば、
 「・・・・・・此(こ)の由来は、阿摩美久(あまみく)、天に上(のぼ)り、五穀(ごこく)の種子(しゅし)を乞(こ)うて下(お)りる。麦(むぎ)・粟(あわ)・きび・豆類の数種を、初めて久高島に蒔(ま)き、稲を知念(チネン)、玉城(タマグスク)に植える。
 ここで聖上>(せいじょう)、親しく久高島行幸(ぎょうこう)されて、御祭礼(ごさいれい)が行われて、春夏四祭は、ここから始まる。
 久高島の古老(ころう)の俗説(ぞくせつ)としては、
 「大昔、天孫氏(てんそんし)の御代(みよ)、アナゴノ子と云(い)う人が、久高島に住み始めた根人であり、妻は、アナゴノ姥(うば)と云った。
 ある日、アナゴノ子は、漁をするため伊敷泊に出た時、波の中に白い壺が一つ、沖から浮いてやって来るのが見え、これを取ろうとしたが取れず、再三(さいさん)、試(こころ)みたが、無駄(むだ)であった。
 急いで帰宅し、その事を妻に話すと、
 「その壺は、必ず由(よし)ある品なのであろう。沐浴斎戒(もくよくさいかい)してからなら、きっと取れると思う。」と言う、妻の言葉に従って、白衣(はくい)を着て汀(なぎさ)に行くと、難(なん)なく壺は取れた。
 壺には、麦・粟・キビ・豆・ビロウ・アザカ・シキヨの七種があり、これ等(ら)の種(たね)を植える。
 皆(みな)生えて、麦は春に成熟(せいじゅく)して、二月は麦穂祭りという祭礼が行われた。粟・キビ・豆は夏に成熟する。ビロウは高く諸木(もろき)に秀(ひい)で、アザカ・シキヨは繁茂(はんも)して森嶽となり、君真物の神がお降りになられた。
 なお、その壺は、石を積んで土中(どちゅう)深く埋(う)めてあったが、これを見ようとした者が鍬(くわ)で掘(ほ)り返(かえ)すと烈風(れっぷう)が吹いて忽(たちま)ち死に、それが幾度(いくど)か繰(く)り返された。
(国王の久高島行幸、還幸(かんこう)は、おもろや、クエニアにも唄(うた)われている。)

※注
【瓜子】(うりざね)。現代語で「うりざね」は「瓜実」の字を当てる。
【玉城】(タマグスク)玉城間切(まぎり)。以前の発音では「タマグスィク・タマグシク」など。
【百名】(ヒャクナ)百名村。
【伊敷泊】(いしきとまり・いしきどまり)イシキの浜。伊敷泊は、東方遥拝の拝所であり、ニライカナイの対岸とされ、壷はこの浜に流れ着いたと言われる。
【久高島】(くだかじま)知念間切、久高村。琉球王国時代から、国王が聞得大君などを伴って島に渡り、礼拝を行っていたが、後に、斎場御嶽(せーふぁーうたき)から久高島を遙拝(ようはい)する形に変わり、1673年(延宝元年)からは、国王代理の役人が遙拝を務めるようになった。琉球の創世神アマミキヨが、天からこの島に降りてきて国づくりを始めたと言われている、琉球神話の聖地の島。琉球王朝時代に、沖縄本島で最高の聖地とされた斎場御嶽(せいふぁうたき)は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽(うたき)であり、久高島からの霊力(せじ)を最も集める場所と考えられていた。久高島の島内には、御嶽(うたき)、拝み所(うがんじょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも、島の中央部にある、クボー御嶽は、久高島第一の聖域であり、男子禁制。久高島には、琉球王朝に作られた神女組織「祝女(のろ/ぬる/ぬーる)」制度を継承し、12年に一度行われる秘祭イザイホー(ナンチュホー)を頂点とした祭事を行い、女性を守護神とする、民俗学的に、また色々な面で歴史的に最も重要な島といえる。12年に一度の午(うま)年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための儀礼として行われる。それにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。なお、イザイホーは、後継者の不足のため、1978年に行われた後、1990年、2002年は行われていない。久高島は、海の彼方(かなた)の異界ニライカナイにつながる聖地であり、穀物がニライカナイからもたらされたと言われている。『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に流れ着いた壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、五穀発祥(はっしょう)の地とされる。島の伝承では、流れ着いたのは壷ではなく瓢箪(ひょうたん)であり、それをアカッチュミとシマリバという名の夫婦が拾(ひろ)ったとする。また、年始に男子一人につき伊敷浜の石を三個拾い、お守りとして家に置き、年末に浜に戻す儀式がある。島北端のカベール岬は、祖神アマミキヨが降り立ったとされる地であり、海神が白馬の姿で降臨(こうりん)したと伝わる聖地である。久高島の土地は村有地などを除いてすべて共有地であり、琉球王朝時代の地割制度が唯一残っている。「久高島土地憲章」により分配・管理を行っている。また、久高島は聖地のため、島から何も持ち出してはいけないという言い伝えがある。中世から近世にかけて、久高海人は、奄美群島まで出かけて、現地妻を作るなどしたため、奄美との交流の歴史は古い。奄美の一地方では、久高海人を意味する「くだかんちゅ」という言葉が、久高島周辺の沖縄諸島住民全体を指して用いられることがあった。
【一双】(いっそう)二つでひと組をなすもの。一対(いっつい)
【聖上】(せいじょう)天子を敬(うやま)っていう語。


Posted by 横浜のtoshi





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チョコチップバニさま。
そうですか!黄金の瓜ざね、沢山作ってましたか!やはり、物語とともに、実際のあれこれを考えていると、興味が湧きますねぇ。
ぜひ、また分かったら、お願いしましょうねぇ〜。
色々、調べたり、旅したりしてますと、それ以外にも思わぬ発見があったりして、楽しいもの。
コメント、ありがとうございま〜す。
Posted by 横浜のトシ(toshi)横浜のトシ(toshi) at 2017年03月06日 02:39


こちらこそいっぺーにふぇーでーびる!どうやら黄金の瓜ざねは沢山作っていたようですよ!怖かったので作っていた場所を聞くのを忘れてしまいました(涙)自分見たいのを、うーそーと方言でいいます。また聞いて見ます。1673年のその記録の長い文書、確かにあります。見せてくれますかね?またその文書何処へ行っか解るそうです。またコメントします。
Posted by チョコチップバニラチョコチップバニラ at 2017年03月05日 20:17


チョコチップバニラ様、はいさい、ちゅーうがなびら。
一発でお名前、覚えました。私も、マンゴタンゴ・としおに、変えましょうかねぇ。
書いている私でも、意外に気づかない事が、物語の中にはたくさんあると思います。まして沖縄や奄美出身の方々、住んでいらっしゃる方々なら、なおさらです。
沖縄や奄美のファンも多く、最近では観光目的でなく、琉球の歴史を辿る方も少しずつ増えてきたとか。もっともっと、そういった事が活発になって、琉球時代のさまざまな遺産が、受け継がれていくと、いいですね。

コメント、ありがとうございました。いっぺー、にふぇーでーびる。m(_ _)m
Posted by 横浜のトシ(toshi)横浜のトシ(toshi) at 2017年03月04日 10:13


どうもはじめましてチョコチップバニラともうします。名前の由来は31(サーティーワンアイスクリーム)商品名と白いバニラを足したイメージで付けました!琉球国時代の歴史は興味深く楽しいですね!楽しくて新しい発見等コメントします。宜しくお願いします。
Posted by チョコチップバニラチョコチップバニラ at 2017年03月02日 18:15


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