てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版) › 125漂流の大君加那志(おおぎみがなし) ~琉球沖縄の民話

~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第125話。


漂流の大君加那志(おおぎみがなし)


 むかし、聞得大君加那志(きこえおおぎみがなし)が、お供(とも)の侍女(じじょ)五、六十名と、久高島(くだかじま)に参詣(さんけい)なされる途中(とちゅう)、俄(にわか)に強い逆風(ぎゃくふう)に遭(あ)って遠くまで流され、薩摩(さつま)の国に漂着(ひょうちゃく)しました。
 一方、大君加那志(おおぎみがなし)の消息(しょうそく)を心配していた首里王府はじめ、下々(しもじも)の者まで祈願したものの甲斐(かい)なく、一向(いっこう)に、何の手掛(てがか)りもありません。
 調度(ちょうど)その頃、琉球沖縄は、旱魃(かんばつ)のため、農作物は不作(ふさく)続きで、人々の中には餓死する者が多く、誰もが非常に苦しみ喘(あえ)いでいました。それを王が心痛(しんつう)され、各地の祝女(のろ/ぬる/ぬーる)や神人(かみんちゅ)達を、お集めになって相談されたところ、口々に言うことには、
 「今、聞得大君加那志が、風に流されて他の国に着いて、苦しまれているからです。」と。
 そう、口を揃(そろ)えて同じ答えが返ってくるのでした。
 そこで、祝女や神人をはじめ、国を上げての祈願を行いました。
 すると、君摩物(ちんまむん)の神様が現れて、言うことには、
 「今、大君加那志さまは、薩摩の国にいる。汝等(なんじら)は、是非(ぜひ)とも直(す)ぐに船を用意して薩摩に派遣(はけん)し、迎(むか)えなければならない。」と。
 そのお告(つ)げを実行するため、馬天祝女(ばてんのろ)を船長に、大城祝女(おおしろのろ)を水夫頭とし、女人五、六十人を引き連(ひきつ)れた船が、薩摩の国に向かって出帆(しゅっぱん)したのでした。
 海路(かいろ)は、順風(じゅんぷう)(おだ)やかで、波風(なみかぜ)が立つことなく、僅(わず)か五、六日で、薩摩に船は着きました。そして迎えの者達は、無事、聞得大君加那志に会うことが出来ました。
 早速(さっそく)、馬天祝女は、恭(うやうや)しく頭を下げ、跪(ひざまず)いて言うことには、
 「私達は、大君加那志さまを、お迎(むか)えに参(まい)りました。一刻(いっこく)も早く、お帰りになられますよう、お願い申し上げます。」と。
 大君加那志は、みんなと一緒(いっしょ)に帰ることになりました。
 船が、馬天港(ばてんこう)に入港すると、沙明嘉(さめか)という者が浜に出てお迎(むか)えし、祝盃(しゅくはい)を上げて歓迎(かんげい)の式を上げました。
 ところが、その後、大君加那志は、大層(たいそう)、首里に帰ることを厭(いと)われて、そのまま大里の与那原海岸の御殿山に宿舎をお建てになって住み続け、とうとう其処(そこ)で、お亡くなりになられました。
 玉骨(ぎょっこつ)は、三津武嶽(みちんだき)に葬(ほうむ)られ、人々は神様として崇拝(すうはい)しました。
 ところでここに、この話にまつわる、もう一つの話があります。
 沖縄の海には、多種好(たじく)と言う魚が、昔は、いなかったということです。馬天祝女が、薩摩に行ったその帰りに、沖縄の海に多種好を放ち、それから殖(ふ)えたとのことです。
 不思議なことに、馬天祝女が浜に出ると、この魚の群れが寄って来ますが、それは与那原の浜でも、何処(どこ)の浜でも、同じであったとの話です。


※註
~『琉球中山王代記』には、察度王の子、武寧王の弟に、本部王子があり。その子、五男二女。次女、聞得大君加那志は、薩洲に行き、三カ年の滞在をする。その後、帰国するも、聞得大君の地位にありながら、かの地で懐妊し、それを恥として、西原ミチン嶽で没する、その子が城間親雲上(ぐすくまぺーちん)となる、とある。記述から見て、西暦一四〇〇年頃の出来事と思われる。
 
※注
【聞得大君加那志】(きこえのおおきみ/きこえおおぎみ/ちふぃじん)琉球における神女の最高位の呼称。聞得大君は「最も名高い神女」の意。加那志は敬称。
【旱魃】(かんばつ)ひでり。特に、農作物に必要な雨が長い間、降らない事。
【玉骨】(ぎょっこつ) 貴人、または、美人の骨。
【大里】(おおさと)大里間切。大里の以前の発音は「うふざとぅ/うふじゃとぅ」など。
【与那原】(よなばる)与那原村。与那原の以前の発音は「ゆなばる」など。与那原には古くから、山 原船(やんばるせん)が出入りする与那原港があり、近代になると海運のほか、馬車や鉄道による陸上交通も盛んになった。
【多種好】(たじく)ハダカイワシ。ハダカイワシ目(もく)ハダカイワシ科。別名、オキイワシ・オキユワシ・ハダカジャコなど。相模湾から東シナ海、フィリピンに分布。また水深200~400mの大陸棚から大陸斜面上部に生息。体長は17cm程度の小型魚。深海に住み、入手は稀(まれ)。水揚げされる際、鱗(うろこ)が剥(は)げ落ちて裸のようになるため、ハダカイワシと名付けられた。脂が多く、焼くと、にじみ出てくるほどだという。
『球陽外巻・遺老説伝』では、王女は自(みずか)らの失態(しったい)を恥じ、首里王府からの招きを快(こころよ)しとせず、与那原海岸の御殿山(うどぅんやま/※古くは海辺であったことから、別名「浜の御殿」と呼ばれた)で一生を終え、その後、三津武嶽(みちんだき)に葬られたとある。一方、註の解釈は別伝(べつでん)によるもので、それには、帰還の時、王女は、かの地で身ごもっており、それを恥じて帰らず、御殿山で没(ぼっ)したとある。なお、この三津武嶽は、子宝(こだから)の神として尊ばれ、かつて与那原(よなばる)町、与原(よばる)では、子どもが生まれて3歳まで、旧暦9月9日のクガニの御願に、赤ウフグを供えていた。なお、三津武嶽(みちんだき)は、『琉球国由来記』では「友盛ノ嶽御イベ」と記され、『琉球国旧記』では「友盛嶽」と記されて、その由来が記されている。


Posted by 横浜のtoshi





この記事へのコメント・感想・ゆんたくはじめ、お気軽にお書き下さい。承認後アップされます。
チョコチップバニラさま。 はいさい、今日拝なびら。

たとえ流行らなくても、元々、研究は流行を追いませんし、おっしゃる通り琉球の民話や妖怪には、個人的にロマンも強く感じ、まさに楽しく、それこそ私の原動力です。

ちなみに、沖縄音楽では、かぐやひも、山川まゆみ、島みずき、湧上高浩が作る歌が好きです。というより、友達なので応援しています。

清明祭に限らず、簡略化されたり、統合されたりといった事は、琉球全域で起こっているようですが、無くなるよりはいいので、何らかの形で残っていって欲しいと願います。
もっとも琉球出身でない私が願うのも、変な話ですが。

沖縄にも、昔や今を問わず、詳しい方はいらっしゃいます。民話研究は、最近、弱い気がします。よって、孤独に作業してます。(笑)

イチャリバチョーデー、今後とも、ゆたしく、うにげーさびら。

互いに、チバッって、いきましょう!
Posted by 横浜のトシ(toshi)横浜のトシ(toshi) at 2017年05月01日 15:49


コメントありがとうございます。昔ながらの風習が受け継がれいるが沖縄らしくロマンがあって楽しいです!今月はYou Do Me (ジルジョーズ&沖縄の女性と坂本龍一)音楽のコラボの曲をウシーミーで流したらすぐられるのでやめておきます(笑)地域によっては清明祭を行わずジュールクニチー(十六日)や旧暦の七夕などを行わうそうです。本土のかたの方が沖縄の歴史に詳しいですね。嬉しく思います。これからもイチャリバチョーデー!の思いやりの心でチバリます!
Posted by チョコチップバニラチョコチップバニラ at 2017年04月21日 17:43


チョコチップバニラさま、はいさい、今日拝なびら。
無学とか、学があるとかは、民話の場合は、あまり関係がありません。というのは、もともと伝承だとか民話だとかは、学問のためにあるのではなくて、生活する人々のためにあるものです。まして物語を読んだり色々知るのに学問はいりません。
聞得大君は、いかにも日本神道的な言葉ですが、琉球では「チフィジン」と発音したようで、「聞得大君加那志(チフィジンガナシとかチフィウフジンガナシ)」とか発音していたようです。
1673年の行事の文書だとすると、随分、昔の文書ですね。それでも琉球国450年間のちょうど真ん中あたりです。そして、事実上は薩摩による琉球侵攻の後、70年弱が経っていますから、それなりに文書がきちんと整い始めた時期です。
いずれにせよ、琉球の魂のようなものが、伝わっているって、素適なことです。
コメント、にふぇーでーびるm(_ _)m
Posted by 横浜のトシ(toshi)横浜のトシ(toshi) at 2017年03月06日 03:02


無学の自分にはわかりませんが、歴史に詳しい学者や知りあいから聞いたり、1673年に聞得大君及び琉球国王の行事の記録された文書があるそうです。そこらへんはその血すじをひくいちむんやムンチュウーが見せるなり公開してくれたら解りやすいと思います。珍しいので一度お願いして見た事があります。1673年だったのかは自分の記憶でコメントしています。
Posted by チョコチップバニラチョコチップバニラ at 2017年03月05日 19:06


かめきち様。こんにちは。

しょせん、
知っている事しか、書けないわけで、
僕は、詳しいのではなくて、
たまたま、知っている範囲で、お答えしているにすぎません。

ジュリや、いちまん売いは、
比較的、知られた、有名な事柄の方で、
実際に、起こったことで、伝わっていることなど、
一握りでしかないのかもしれません。

ですから、実際には、
年季奉公どころか、もっと酷い人身売買も、少なくなかったようです。

もっとも、
自然科学も、まだなく、
民主主義も生まれていない時代のことだったりしますから、
その時代の、物の見方や考え方で、
学ぶのは、まだまだ、僕には難しいです。

読んで頂いている、みなさんには、
ご自由に、物語として、読んで頂ければ、幸いです。

いつも、コメント、ありがとうございます。
感謝です。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年08月31日 00:11


横浜のtoshiさん、こんばんは。

とても琉球の歴史に詳しいですね。
ジュリといちまん売いは、話に聞いてはいました。
年季奉公明けても、貧しい家に帰らなかったというのは、知りませんでした。
なるほど、勉強になりました。
ありがとうございます。
Posted by かめきちかめきち at 2010年08月30日 23:08


かめきち様。はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

かめきちサンのおっしゃる通り、
確かに考えてみれば、
苦しんでいた人々は、その後、どうなったんでしょうね?

ただ、実際に琉球沖縄で、多くの一般の人々の生活は、
慢性的に、苦しい生活だったのです。
特に、年貢、今でいう税を納めるのが、これまた大変でした。

むかしの、琉球沖縄の一般の人々の場合、
自然災害で、真っ先に被害をこうむるのは、多くが子ども達で、
年季奉公、つまり、人身売買されるわけです
(それはなにも、沖縄や日本だけに、とどまりません)。

琉球沖縄の場合で言えば、
有名なところでは、男の子の場合、
「糸満売り(いとまんうり/いちゅまんうい)」が典型です。

10歳前後の貧困層の少年が、
前借金と引き換えに、糸満漁師の下で住み込みで働き、年季奉公しました。
彼らは「雇子(ヤトイングァ)と呼ばれ、満20歳で年季奉公が明けました。
その間に、漁業の技術を叩き込まれ、技術を修得しました。


女の子の場合は、
やはり、ジュリ売り(ジュリウイ/尾類売り。辻遊郭の遊女)が有名です。
それでも江戸の吉原といった遊郭とは、随分、違ったようで、
辻遊郭街の場合は、逃げ出すジュリは殆どなく、
男に囲われるといった事も、殆どなかったようです。
また、娼妓といっても、拒否権が与えられていました。

辻遊郭は、独特の社会構成と独自の組織をもっていて、
古くから、
アンマー達の自治組織であった前盛(ムイメー)組合がありました。
前盛とは、
ジュリ社会を管理する立場のアンマー達の事で、名誉職でした。

その前盛を中心に、
伝統的なムラ社会と全く同じように、祭祀行事が行われ、
母親と娘、姉妹という、疑似的な親子関係が作られる社会組織でした。

普通の集落同様に、御獄(ウタキ)もあれば、
旧暦1月20日(二十日正月)には、
ジュリ達が総出で行う、ジュリ馬行列という祭りまでありました。

女のジュリ売い、男のイチマン売いは、
昔から戦前まで、
貧しい家には、付きものだったのです。

なお、年季が明けても、帰る者は少なかったようです。
理由は簡単で、
元々、生活が苦しいから年季に出されるのであり、
年季が明けると、その道で立派に生活してゆける技術を修得しているため、
何もわざわざ、苦しい生活に戻ろうとは思わないというわけです。

沖縄本島より、もっと酷い状況だったのが、離島です。
奄美の家人(ヤンチュ)はじめ、身売りや奴隷制度はいくらでもありました。

ペリーが、沖縄(琉球)経由、東京(江戸)に来て、開国してから、
まだ、たったの150年しか経っていません。

やはり、今の時代だからこそ、学ぶことが大切だと思ってしまいます。

では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年08月30日 15:05


横浜のtoshiさん、おはようございます。

このお話には、苦しんでいる人々がその後どうなったのか?
肝心なことが載っていないのですが・・・・。

私は専門的なことがわかりませんので、稚拙な質問をするかもしれませんが、御容赦ください。
Posted by かめきちかめきち at 2010年08月30日 08:11


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版)」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法